亞無亞覇亞那亞幽 AnaabhaAnaayu

ご飯を食べるときは、死んでいった生物へ、感謝ではなく謝罪をしましょう。
死んでいった生物達を思い、常に後ろめたい気持ちを持ちましょう。
人類に虐げられている動植物たちのことを思うと、
人類は幸福になるべきではありません。
生きることは、恥ずかしいことです。
資本主義に毒された即物的人生観を改めるべく、
太古の宗教心を想起しましょう。
人類を機械に進化させるべく、基礎科学・科学技術の研鑽に務めましょう。
(人類のエネルギーをバイオエネルギーから物理的エネルギーにシフトすることで人類を殺生の原罪から解放する)


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 07/11 "Queen 2020" at club Joule
  "Queen 2020" at club Joule







研究_0014(2020/07/25)
対馬フィールドワーク
昨年の壱岐に続き、今年の夏は対馬にフィールドワークに行って来ました。
主な目的は、魏志倭人伝の行程チェックと、亀卜の現地調査です。

壱岐から対馬へ渡る海。
弥生時代にはすでに外洋航路として確立していましたが、
見渡す限りの海、海、海。
弥生時代に手漕ぎボートでこれをどうやって渡ったのか不思議です。

内地ではあまり見かけない海上保安庁の巡視船が停泊しており、
ここが国境・最果ての島である事を体感します。
調査一日目・大字阿連の雷命神社に来ました。


対馬では亀卜が行われていた場所が数か所あるようですが、
この雷命神社は特に主要なポイントです。
まず目に入るのが可愛らしい狛犬。
守護神というよりも、人懐こく迎えてくれるようです。



雷命神社の当主にお話をお伺いしました。
・現在、豆酘の雷神社で執り行われている亀卜は、ここ雷命神社がルーツである。
・雷命神社では2年前から亀卜は行っていない。
・社殿や当主のお家が火事で焼けてしまい、亀卜に関する資料は全て焼けてしまった。
・当主は神職を受け継がず、亀卜の文化は完全に途絶えてしまっている。
・神社に詰まれた小さな石は、女性が海で拾ってきたものであり、
 潮でケガレを落とした事を示す意味がある。
・亀卜に使う亀は、オオノサキという岬で捕獲した亀の甲羅を使う。
 →そこにどのようないわれがあるかは不明。
・アレサキという岬にも祠があるが、今は拝む人はいない。
・阿連で亀卜が定着した理由は不明。
・雷命神社の分家が、厳原の八幡宮の神主をしている。
 亀卜についてはそこで聞く方がいい。
雷命神社に自転車で行く道中、地元の人々に道を尋ねる際にお話をお伺いしましたが、
この神社を特に亀卜で有名だという認識はないようでした。
雷命神社を後にし、古墳に向かいました。
古墳時代末期との事ですが、内地にはちょっとみかけないようなピラミッドのような石垣構造の古墳です。


そういえば対馬には市街にも江戸時代までの石垣がとても多く、
それは古墳やそれ以前から悠久の時を経て作り出された文化である事がわかります。
石への特殊な向き合いについては後にも記します。
古墳があまりにも気持ちよく昼寝をしていたら、歩き出した途端に雪駄の鼻緒が切れました。
罰当たり…。

調査二日目・厳原の八幡宮に来ました。
残念ながら神主はご不在でしたが、お若いご神職にお話しを伺うと、
八幡宮では豆酘のような亀卜をやるような気配、雰囲気はないとの事です。
特に、資料が焼けて全く残っていないという事は知られた事実のようで、
歴史を尊重するがゆえに、推測の混じった方式で亀卜を復活させる事は
抵抗があるとおっしゃっていました。
今回の調査はあまり時間が取れなかったため、ここまでです。
亀卜に関してわかった事は、とにかく亀卜を次代に受け継ぐ気がないという事。
非常にもったいないと思いますが…
しかし、特に雷命神社においては、公には書けないような事実を
他にもたくさん教えてもらい収穫がありました。

その他
街の辻々にて、小さな祠をたくさん見かけました。 祠の中には石が入っており、特殊な信仰形態が残っています。

石に関する信仰の詳細については、町の本屋さんにあった地元流通の書物に載っていました。 対馬では、海中の石に祖先の霊が憑いているという信仰があったようです。 その由縁は、海際の墓石(丸石)が台風時に波に洗われ、海中に沈んでしまう事によります。  →現在の島民にもインタビューしてみましたが、残念ながらその信仰は廃れてしまっていました。 なお本屋さんが対馬コーナーを設けていらしてとても感心していたら、写真を撮っていいといわれました。 上記の話は赤丸の本に書いていました。

研究_0013(2020/01/18)
三輪山フィールドワーク
奈良県の三輪山へ行きました。
三輪山といえば出雲との関連性を探る文脈で語られ、
邪馬台国九州説に傾いている自分としては今回の旅もそのように
大和王権に関する知見を深めるために行ったのですが、
非常に驚いた事…宗像との共通点が多い!
三輪山と宗像との関連を探る文脈での研究はこれまであったのだろうか…?
次に共通点を列挙します。
1:「沖津宮」「中津宮」「高宮」という聖地ネーミング。
山道(参道)沿いに通過する磐座ごとに設置されている立て札を見かけました。
「辺津宮」もあるのかな?
2:付近に市杵島姫が祀られている。
 市杵島姫というのは宗像の祭神です。
3:三輪山頂の光景が、宗像沖ノ島に相似。
 山頂では、沖ノ島ほどの巨大なものではありませんが、
 ブルドーザーでないと動かせない程度の岩が密集している一帯が禁足地となっており、
 まるで「ミニ沖ノ島」の様相を呈している。
以上。探したらまだまだ見つかるかも。
三輪山の神って出雲の大物主神じゃなくて、宗像の神なのか?
いやいや宗像発見後に、大和王権人が三輪山の聖地を宗像風にネーミングしただけなのだろうか 出雲と宗像と大和がどこでどうつながるのか?今後さらにそのテーマで掘ってみます。

備考1:
三輪山の登山口付近に、久延彦神社というお社がある。
離れてみるといかにも古墳然としており、神職の方にお話を伺うと、
やはりそういう説も非公式ながらあるそうです。
古墳の神社化現象もいつか追わなければならない…。


鄙びた三輪駅で帰りの電車を待つ。雨上がりのクロックス登山ドロドロ


研究_0012(2019/08/15)
壱岐島フィールドワーク
邪馬台国および卜骨に関する調査のため、壱岐島へ行きました。
まず一支国博物館へ。
ここで、コペルニクス的転回が起こりました。
すなわち展示のどこを見ても、邪馬台国に関する記載が一切ないのです。
そうか、邪馬台国がどうあろうと、一支国は一支国だけで堂々と独立した誇り高い王国なのだ…。
本土(邪馬台国側)から海方を向いて魏志倭人伝を読むと、どうしても
最終地点の邪馬台国から旅程を遡るような読み方をしてしまいますが、
ここ通過地点の一支国において魏志倭人伝を読むと、邪馬台国こそが海の彼方の遠くの国なんですね。
私の古代観は邪馬台国という幻にとらわれすぎているのかも知れない。
夢幻のような邪馬台国を探すよりも、ここに古代があるではないか。

ちなみに、卜骨に関する新しい情報は得られず。学芸員さんも、卜骨占いの詳細までは関知されていないようでした。
次に原の辻遺跡へ。
各棟が気合の入った復元のされ方(全然今すぐにでも住めるし、台風にも耐えられるほど頑丈)で、感服。
なんだか当時の村人になって仕事終わりに歩いているような気分になりました。
夕日がきれい。
穏やかな空気が流れており、大和の唐古・鍵遺跡の雰囲気ににている。




研究_0011(2019/08/14)
研究_0010にて報告した土器を、海の道むなかた館(宗像市郷土文化学習交流館)に寄贈しました。
採取場所(かんす海水浴場付近の海の道)を伝えました。
大飛島砂洲のような祭祀遺構なるか?
今後調査して頂けるとの事です。

宗像市郷土文化学習交流館 海の道むなかた館
http://searoad.city.munakata.lg.jp/

研究_0010(2019/08/13)
宗像大島でのフィールドワークにて土器を発見しましたので報告します。
写真円形:紡錘車? 写真破片:弥生式土器?




あるいは祭器…?


研究_0009(2019/05/04)
改元に伴い宗像の研究を行いました。
下記、宗像神宝館の学芸員さんからの聞き取り調査結果を記します。

律令制下の大和王権において、
祭祀を担っていた役職を神祇官という。
宗像で祭祀を行っていた人々も、この神祇官である。
大和王権が仏教を取り入れた後、神祇官に仏教の僧侶が加わる。
全国的な神仏習合の動きで、神祇官における神職と僧侶の割合・ステータスは
同程度になっていくが、宗像だけは特別であり、絶対的に神職の方が位が高かった。
また、宗像においては仏教の祭祀を行うことは絶対になかった。
日本書紀・古事記において記述のある宗像三女神は、
それ以前から、宗像の土着の信仰であった。
押し付けたわけではない。
大和王権の黎明期、
九州で外洋(朝鮮)に出る航海術を持っていたのは宗像氏だけだった。
従って、大陸との交渉を政策の要とする大和王権より宗像氏が重用された。
沖ノ島への渡航の事実を他人に話してはならない、お言わずの禁忌は、いつからあった?
宗像に関する情報は、日本書紀に記載されてから江戸時代に至るまで、
一切資料化されなかった為、不明である。
ここまで。
以下、私の疑問と推理。
大和王権黎明期に、宗像の地での外洋ルートを開拓したということは
それまで大和王権は外国との交渉を行っていなかったということになる!
それでは、魏志倭人伝に記されている、魏と交渉を行っていた邪馬台国とは
大和王権とは違う国なのか!!?
邪馬台国は宗像にあったのではないか・・・?
卑弥呼の存在が、宗像三女神の伝説になったのか・・・?

研究_0008(2019/04/07)
コンピュータ言語という呼称について
コンピュータ言語には人間の言語とは決定的に違う側面が二つあります。
1.対象との相互コミュニケーションを目的としたものではない
2.感情を表現する言葉がない
上記より、コンピュータ言語は「プログラム可能」な「コマンド」ととらえ、
新しく「プログラマブルコマンド」という呼称に変えることを提案します。
コンピュータ言語を人間の言語のように取り使い認識することは、人間の精神力を貶める行為です。
ソフトウェアモジュールにおいて、戻り値やイベント発生、あるいはネットワークのプロトコル応答等を
「言語的な応答」としてとらえる事ができるという
反論が容易に予想できますが、それは事前にそう組んでいるだけで、仕様書を見れば全ての答えが予想できます。
全ての答えが完全に予想できる会話は人間にはありません。
人間の扱う言語と同等の言語を作り出すことは、デジタルコンピュータでは原理的に実現不可能なのかも知れません。
つまり、言語の本質は論理にはなく、物理的法則にあるという事です。
この考え方は、言語の本質をその「使用」であると捉えたウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論にも接近します。
物理法則の上に社会法則が成り立っており、社会法則の上に言語の意味が成り立っています。

研究_0007(2019/04/06)
アヌビスとカルラとお稲荷さんと岩と仏像
私のメイクは狐面をモチーフとしています。
名古屋在住時、生玉稲荷という神社に通っており、その霊力の鋭さに感銘を受けて狐のメイクを始めました。
さて、稲荷信仰の起源は何なのでしょうか?正直、明確な所は研究がさほど進んでいません。
稲荷神社(社・祠)は独立した伝統を持つ所もあれば、皇室につながる伝統的な神社に併設されている事や
真言系のお寺に併設されていてる場合もあり、まさに正体不明といえますが、私はここに稲荷の普遍性をみます。
稲荷の普遍性という観点で視野を広げてみると、世界各地にも稲荷信仰に類似した獣面人身神が散見されます。
エジプト神話のアヌビス神、インド神話・中国仏教の迦楼羅天が代表的なところです。
エジプト→インド→中国→日本へ獣面人身神の思想がシルクロードを伝わったのでしょうか?
そうも考えられますが、私は世界で同時多発的に発生したと考えています。
その根拠を日本古来の原始神道を足がかりとして求めてみます。
神道には原始から、依代の思想があります。岩や大木に神が降り、依り付くと信じられました。
その静物への信仰とは別に、動物への信仰も一種の依代なのではないかと考えています。
人間には、見えないものをどうにか見える化したいという習性があります。
静物に対しては、その不変性を象徴として対象化し、動物に対しては、厳しい自然の中で生きる強さを象徴として対象化したのでしょう。
進化の過程で造型のスキルを磨いてきた人類において、仏像は依代としての極致と考えることができます。
このようにエジプト、インド、中国、日本の信仰を依代思想で抽象化することができます。

研究_0006(2019/04/06)
アナログコンピュータの可能性について
現代におけるコンピュータのはほぼ全て、電圧のオンとオフをその最小処理単位とするデジタルコンピュータです。
デジタルコンピュータには大きな欠点が二つあります。処理速度と、処理の荒さです。
処理速度について:
デジタルコンピュータには、レジスタまたはメモリの値を書き換えながら計算を実行するという絶対的な時間的壁があります。
人間の脳、またはアナログコンピュータにはそのような無駄な処理はありません。
処理の荒さについて:
デジタルはその言葉とおり2つの値を最小処理単位としています。これでは人間の脳に絶対に敵いません。
人間の脳の最小処理単位にはおそらく、全体性(holism)が関わっています。さらに踏み込んでいえば、
最小が全体であり、全体が最小である、
そのような構造があると私は考えています。
もちろん人間脳にも、電圧のオン/オフの処理単位はありますが、全体を局所の処理要因とする構造はありません。
上記二つの壁を突破するコンピュータの形式は、アナログコンピュータです。
トランジスタまたはオペアンプによる計算は、レジスタの書き換えを必要としません。論理ではなく、物理で動作します。
電子回路上のアナログ的な電圧変化は光速度で伝わりますので、量子コンピュータによる並列計算をいくら進化させようが、
アナログコンピュータの処理速度を超えることはできません。
勝手な予想になりますが、現在流行っている人工知能の開発は上記二つの問題により頭打ちになり、
ブレイクスルーはアナログコンピュータによってもたらされるでしょう。

研究_0005(2019/04/02)
かつて邪馬台国で太占に使われていた動物の骨について
古代アジアで広く行われていた占いに、太占があります。
動物の骨を焼いて、そのひび割れ方から吉凶を占います。
特に中国では亀の甲羅を、日本では獣の肩甲骨を用いました。
ここでは日本の太占について考察します。
日本各地の弥生時代遺跡から出土する太占用の骨としては、西日本は猪、東日本は鹿の比率が高くなっています。
現在、近畿で邪馬台国に比定されている巻向遺跡、唐古鍵遺跡において、
これまでに出土した太占の骨はすべて猪です。
それではそのまま、邪馬台国では太占に猪の骨を使っていたと考えてよいのでしょうか?
あるいは、なぜ鹿の骨を使わなかったのか?
私は鹿の骨はあまり使われていなかったと推測します。
大和では鹿は神聖な生物だからです。
もう太占があまり行われなくなった奈良時代に編纂された古事記において、
「古の神代に行われていた太占は鹿の骨を使っていた」と書かれています。
さらにまた奈良時代に編纂された万葉集においては鹿がよく謡われ、
鹿を謡うことが一種の言祝ぎとされていた節があります。
現在、奈良公園一帯で鹿が「神鹿」として崇められていることは承知の通りですが、
なぜ鹿なのか?不思議に思ったことはありませんでしょうか。
現代人の不思議な精神の根拠が、古墳・弥生時代の遺跡から出土する骨の種類によってある意味で裏付けられています。
また現代の文化が、遺跡から出土する古代人の精神のあり方を裏付けています。
現代文化と古代文化が互いに保証しあっている興味深い例だと思います。

研究_0004(2019/03/12)
人間工学思考実験_1
階段を昇る時は、すごく疲れるのに
階段を降りる時は、なぜ楽なのか思考実験を行いました。
初等力学的に考えると、階段を昇るも降りるも、 同じだけのポテンシャルエネルギーを消費しています。
階段を降りる時、昇る時よりも少し勢いがつきます。
体重がかかり、スピードが少し速くなります。
すなわち階段を降りる時には、靴底または足裏で、熱が起こりやすくなります。
解は、ポテンシャルエネルギーが熱エネルギーとして消えるためです。
おおよそですが、階段を10段降りるときのエネルギーは、階段を1段昇るエネルギーと同じで、
残りの9段降りる分は熱になるということです。

研究_0003(2019/03/12)
邪馬台国ではどのような言葉が使われていたのでしょうか
私は素直に上代の古語とそう変わらない言葉で話していたと推測します。
学校で学ぶ古文というと、平安時代以降は主に貴族やインテリ武士による文章が主ですが
上代古語、すなわち奈良時代以前の古文として、万葉集があります。
万葉集には、天皇から貧しい庶民まで様々な階層の人々の言葉が残されています。
戦後、柳田國男によるところの「平民の歴史学」としての民俗学がわが国でも興隆しましたが
万葉集を紐解けば、わざわざ「~の」という但し書きをつけるまでもなく、日本国民の大きな、おおらかな歴史学がそこにあります。
おおらかな、という形容は万葉集の文学的魅力に踏み込むのでさておき、ここでは考古学的価値に焦点を当てます。
万葉集は奈良時代に編纂された歌集ですが、一番古い歌は、4世紀頃の歌といわれています。これは古墳時代です。
古墳時代といえば、邪馬台国が終焉を迎えて次の時代です。
邪馬台国から古墳時代の幕開けまでの150年間に何が起こったかは不明ですが、
現代の感覚でいうと、150年前といえば映画やドラマでいうと「ラストエンペラー」や「坂の上の雲」の時代。
古墳時代の人々にとっての邪馬台国は、それほど古くない記憶だった筈でしょう。
また、万葉集には大和中央の言葉だけでなく、地方の方言があります。
これは、大和言葉が短期間で急速に日本中に広がったわけではないことを意味します。
すなわち、特定の言語をもった民族・豪族が、日本各地を侵略したわけではないということです。
血縁社会の特定のやんごとなき階級の人々だけでなく、どこの馬とも知れない庶民の歌が含まれていることもまた
この特定の豪族による侵略説を否定する要素となるでしょう。
したがって、日本全国で同じような言葉が使われていたと私は推測します。
邪馬台国ではきっと、万葉集のようなおおらかな歌がさかんに歌われていたことでしょう。

研究_0002(2019/03/03)
数列に関する公式を一つ発見しました。
(a^n)+(a^(n+1)) = (a^n)(a+1)

研究_0001(2019/02/21)
邪馬台国について
邪馬台国の研究は神の研究に直結します
邪馬台国の位地はマルクス主義哲学を使うことで
演繹的に大和説の解を導くことが出来ます。
マルクス主義哲学のうち史的唯物論によると
文化・政治・学問といった人間の精神的活動は
経済的土台に規定されて成立します。
邪馬台国の時代は、弥生時代末期です。
弥生時代とは、稲作がわが国に輸入された時代です。
日本列島全体に稲作が爆発的に広がりました。
邪馬台国の位地を巡る論争には、
大きく、大和説・九州説の二つの立場があります。
九州説から見ていきましょう。
九州は、伝統的な海の国です。
古墳時代以降の史料を参照しても、宗像氏、安曇氏等、
漁業を生業とする豪族が政治の中心で大きな力を持っていました。
古墳時代ですらその有様なのですから、
弥生時代の稲作の輸入には、有像無像の抵抗があったことが予想されます。
現代においても、人類は変化を嫌うことは承知の通りです。
では、弥生時代の大和を見てみましょう。
大和は現在の奈良県にあたり、縄文~弥生時代の奈良盆地は広大な湿地帯でした。
また伝統的な生業は平野で行われる狩猟・採集でした。
稲作が輸入されたことにより、それに適した土地である広大な湿地帯で
人口爆発が起こり、豊かな都市が成立しました。
稲とは現在でいう金貨と同じ価値がありました。
考古学的に、二つの事実があります。
朝鮮半島から輸入していた金属が、どうも九州を迂回して大和に入るようになったという事実です。
これは、大和における稲作の発達=財の蓄積の証拠です。
大和が金を持ち、貿易の権益が九州から大和に移りました。
大和では都市の発達・および金属を使った武器の発達により、大規模な戦乱が起こります。
考古学では、女王卑弥呼の成立は、国が滅びるほどの大戦争を沈静化するための
擬似的な王の擁立という説がありますが、ここからは、魏志倭人伝にある通りです。
マルクス主義における史的唯物論、および考古学の知見を使うと、大和には、
広大な湿地帯→稲作の発達→人口爆発→都市の成立→金属輸入→武器の発達→戦争→戦争を鎮めるための政治システムという流れを
演繹することができます。
九州には、稲作への移行がスムーズに行われなかったという経済的土台があるため、
戦争を鎮めるための政治に至る演繹が破綻してしまいます。
したがって、論理的に邪馬台国大和説の解となります。

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